嘉永七年(安政元年)十一月四日(1854年12月23日)午前9〜10時頃に,安政東海地震が起きた.つじ(1992)によれば,安政元年当時に駿府士太夫町の町頭をしていた萩原四郎兵衛による安政東海地震の見聞録『大地震御救粥並町方施米差出,其外諸向地震に付聞書一件』に
(1)「十一月四日朝,本町一町目鯛屋半右衛門殿富士山見候処,真黒之笠御山上へ冠り候由之事」
(2)「同日,富士郡之人不二山を見受け候処,牛程成者羽根これ有るが数多舞歩行候由之事」
(3)「(同月)廿一日(1855年1月9日)頃,宝永山より真黒の煙立上候由之事」
(4)「(同月)四日,富士山八合目へ火多数見へ候由之事」
という一連の記述があるという.(1),(2),(4)は安政東海地震と同日の記事であるが,地震との前後関係は不明である.仮に地震にともなって生じたものとすれば,(1)と(2)は地震動によって大規模な崩落が生じたことによる土煙や巨大岩塊の転動で説明できるかもしれない.(3)も余震にともなう崩落の土煙かもしれない.しかし,(4)の多数の火は説明困難である.これらの記述にもとづいて,つじ(1992)は安政東海地震にともなって小規模な噴火が起きた可能性を指摘している.
さらに,つじ(1992)は富士宮の浅間神社の門前で商を営んでいた酒粕屋の日記である『袖日記』の中の次の記事を紹介している.
「(安政元年十二月二十五日)(1855年2月11日)この頃富士山の雪解る事,二,三月頃の山の如し,山気陽精籠り居る哉と人々怪しむ風説多し」
つまり,安政元年の十二月末は冬とは思えないほど富士山に雪が少なかった.このこと自体は異常気象として説明可能かもしれないが,つじ(1992)は富士山になんらかの地熱異常があった疑いを述べている.また,つじ(1992)は,安政東海地震以前の少なくとも120年間ほどは存在しなかった山頂火口南東縁の荒巻(あるいは勢至ヶ窪)の地熱活動が,安政東海地震をきっかけとして始まったらしいことを論じている.
以上のことから,安政東海地震に関係して富士山になんらかの火山活動や地熱活動の変化が起きた可能性がつよいので,今後十分検討する必要がある.