■天保五年(1834)土石流

 田山(1904)は,「(天保五年)四月八日(1834年5月16日)癸卯,是日,駿河國大風雨,富士山俄ニ鳴動シ,崩雪焼砂落下シテ,富士郡ノ田畑人家ヲ流亡セリ,甲斐國郡内領明見,吉田二村モ,其害ヲ被レリ」と述べた上で,『天保雑記』,『甲子夜話』,『内廻状留』の3史料から長文を引用している.このうち,『天保雑記』と『内廻状留』は事件の公的な報告状(『内廻状留』の記述は『天保雑記』の一部とほぼ同文),『甲子夜話』は体験者からの直接の伝聞と思われ,信頼できる.都司(1983)も『〓(りっしんべん+兼)堂日暦』および『筱舎漫筆』という2つの同時代史料から同日の富士山崩壊を記述した長文を引用している.
 記述内容から考えて,大雨が引き金となった崩壊と土石流と考えられる.若林(1996c)は,この大規模な雪代災害について『浅間文書纂』などから多数の同時代史料(絵図を含む)を引用した上で,主として静岡県側の被害について詳しく論じている.
 同じ日に山梨県富士吉田市内の各地でも深刻な雪代災害が起きたことが,『雪代出水小明見村居屋敷田畑流出につき見分願書写』,『雪代出水下吉田村居屋敷田畑流失につき夫食手当御救金下付願書写』,『雪代出水居屋敷田畑流失のため谷村御囲籾下付につき三カ村請書写』,『雪代出水のため夫食代拝借につき三カ村請書写』(いずれも富士吉田市史史料編第三巻)の4文書からわかる.


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