肥前国平戸藩主松浦清が文政四年(1821)から天保十二年(1841)にかけて執筆した随筆『甲子夜話(かっしやわ)』(巻六十七「行智富士紀行」)に次の記述がある.
「乙酉(文政八年)の夏,行智が富嶽に登しとき(中略)
富士の鳴音
六月十日(1825年7月25日),甲州吉田御師,小沢信濃の家に宿る.暁がたに至りて,富士の頂上の方にて,譬へば海近く波の打寄る如き音して轟き鳴る.傍なる老に,あれは何音ぞと問へば,御山の鳴るなり.頂に御息の立つ朝は(御息とは風を云なり)いつもこの若しと答ふ」
行智という人が甲州吉田(現在の富士吉田のことであろう)において,富士山頂の方角から鳴動を聞いた.その際に古老が,山頂に「御息」が立つ朝にいつも聞こえると言ったそうである.
行智とは,おそらく江戸時代後期の修験者行智慧日(1778-1841)であり,諸学に通じた人とのことなので,『甲子夜話』の著者と交流があり,自分の体験を伝えたのだろう.
つじ(1992)によれば,宝永噴火後の1780年頃から1827年頃まで,富士山頂では微弱な煙が立ちのぼる時期があったらしい.よって,ここでの古老の言う「御息」は,そのような煙(おそらく噴気)のことを言ったのかもしれない.もしそうなら,噴気が立つ朝に鳴動が聞こえるというのは,興味深い証言である.このころ噴気活動と鳴動はしばしば同期して起こっていたことになるが,伝聞のまた伝聞を書き留めた記事であるので,別史料の裏づけが必要であろう.