東海道原宿(現在の沼津市原)の問屋場で代々書役をつとめていた土屋氏は,明和七年七月二十七日(1770年9月16日)に富士山に異常を認め,その様子を2枚の絵に描き,それぞれの絵に以下のような説明文を加えている(若林,1996b).
「明和七年庚寅七月廿七日 夜九ツ時 富士阿し高之間 赤ク成事如斯 中ニ白キすじ十四,五本づつ出候 右之赤ミ東西へ啓ク」
「其夜ハ八ツ過か段々と赤ミうすくなり 見ゆること如斯」
すなわち,この日の夜半頃に富士山の南東側にある沼津市原から,富士山と愛鷹山の間に赤い光が見え,赤くなった付近から白い筋が14,5本出たという.そして,その赤い光芒は東西に開いていき,2時間ほどして段々と薄れたという.
沼津市原から見ると,富士山と愛鷹山の間は宝永火口の南東側にあたる山体斜面であり,側火山の密集域となっている場所である.白い筋(噴気?)が多数見えたことや赤い光芒が東西に開いたという記述は,割れ目噴火が生じ,割れ目が北西-南東方向に伝播していったことを想像させる.しかし,宝永噴火より新しい時期に富士山南東山腹で噴火が生じたという確かな地質学的な証拠は知られていない.
翌日の七月二十八日夜に,日本の各地で赤気を見たという記録が多数ある(大崎,1994).これらの中には体験者自身の記述や体験者からの伝聞と思われる同時代史料が複数含まれているので,信頼できる.また,記述内容も,原宿の絵図に描かれていることとよく似ている.絵図の中の記述は,赤気の出現日を一日誤って記述したものではないだろうか.
なお,大崎(1994)は,「明和七年七月二十八日の極光は日本で見えた極光の記録のうち最も著しいもの」と欄外にコメントし,赤気をオーロラと解釈している.