▲宝永五〜六年(1708〜1709)鳴動・降灰?

 名古屋藩士朝日重章の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』の宝永五年十月二十八日(1708年12月9日)条に,「江戸今日暮より少々灰降,鳴動も少々あり富士も少々煙立」とある.
 さらに,鳥取藩士岡島正義が安政年間(1854-1859)に著した『因府年表』の宝永五年十一月二十七日(1709年1月7日)条に「富士山復々焼く(不詳可考)」とある(武者(1943a)では宝永五年十二月十六日の記事とされているが誤記と思われる).
 1708年末から1709年初頭にかけての富士山の状態については,富士山麓の地方史料などについてのさらなる検討が必要である.


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