小山町史(第二巻近世資料編 I)は『富士山鳴動につき須走村届書控』として,須走村の名主および組頭4名の署名が入った届出文書を載せており,その中に以下の記述がある.
「当十月廿八日夜九ッ半過時分震動之様成音仕候,方角之儀は富士山去冬出来仕候宝永山之方ニ而ひゞき申候,所之者共も余程音と聞覚申候,砂灰抔ハ曾而降リ不申候,冬ニ成申候得ハ富士山忽而雪深ク積リ申候得共,宝永山近所ニハ雪積リ不申候,此外可申上儀無御座候」
宝永五年十月二十八日の夜九ッ半過時分(1708年12月10日の午前2時頃)に,宝永山の方角からかなり大きな音が鳴り響いたとのことである.砂や灰は降らなかったというから,噴火ではなさそうである.この地域での12月という季節を考えると,雷鳴とは考えにくい.宝永噴火直後の宝永火口を描いた絵図(沼津市原の土屋博氏所蔵)には,今は存在しない円弧状の亀裂が第1火口壁の上縁に描かれている(小山,2002,2006).このような不安定な火口壁の一部が崩落した時の音かもしれない.
なお,宝永火口付近に雪が積もっていないとも書かれているが,このことは宝永噴火から1年に満たない時期のことであり,まだ宝永火口付近の地表温度が高かったことで説明がつくだろう.