沼津市東熊堂(くまんどう)にある大泉寺にいた僧侶教悦が残した覚書『元禄十六癸未十一月□一日夜丑之刻大地震事』に「扨又極月晦日ニハ富士山ナリ,正月二日,三日両日ニハ大分ニナリ,ソレヨリ地震少ヅヽニナリ,自然トユリヤミ候」とある(若林,1996a).
相模トラフで生じたプレート境界地震である元禄関東地震は,元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)の丑刻に発生したことが知られているので,上記史料題名の「十一月□一日」は十一月廿三日の誤りであろう.その35日後(若林は39日後としているが誤植であろう)の十二月二十九日(1704年2月4日)に富士山が鳴動し,翌年正月二日と三日(1704年2月6日と7日)にさらに大きく鳴動したという.
同史料中の他の記述には,元禄関東地震の余震が沼津でも日々感じられ,仮設した小屋で年を越したとある.一般に,地震には鳴動が伴うものがあることが知られているが,ここであえて「富士山ナリ」と書かれていることから,それまでの余震にはなかった鳴動が富士山方向から聞こえてきたのであろう.富士山にはしばしば雪代が発生し,鳴動をともなうこともあるが,厳冬期であるこの季節には考えにくい.
その後,周知のごとく宝永四年十月四日(1707年10月28日)に駿河・南海トラフでプレート境界地震(宝永地震)が発生し,その49日後に富士山が次項で述べる大規模な噴火(宝永噴火)を起こした.後述するように,宝永噴火の前にも富士山の鳴動が生じたことが知られている.
以上のことから類推して,若林(1996a)の推測通り,1704年2月4〜7日の富士山鳴動は,元禄関東地震が引き金となって富士火山のマグマ活動が活発化した(が噴火には至らなかった)事件とみるのが自然であろう.