×永禄三年(1560)または四年(1561)

 小鹿島(1894)に「永禄三年是歳駿河富士山噴火(地震学協会報告)」という記述があり,これが後の時代の研究者にしばしば引用されて1560年に富士山が噴火したとされてきた.しかし,注意すべきは,引用元として「地震学協会報告」が挙げられていることである.時代関係から言って「地震学協会報告」がMilne (1886)をさすことは間違いない.Milne (1886)の富士山の項をみると,1560年の噴火はWada (1884)からの引用となっている.
 Wada (1884)は「1878年に山梨県に行った際,下吉田において富士山の歴史噴火の年代を得た(一部は渡辺氏所有の史料から採録した)」として,次の8つの噴火を挙げている:(1)延暦十八年(799)三月十四日〜四月十六日,(2)延暦十九年(800)三月,(3)延暦二十一年(802)三月,(4)貞観六年(864)五月一日〜五月二十五日,(5)承平七年(937),(6)元弘元年(1331)七月七日,(7)永禄三年(1560),(8)宝永四年(1707)十一月三日.
 下吉田というのは現在の富士吉田市下吉田であろうが,渡辺氏が誰かは不明である.なお,和田(1884)は,Wada (1884)とほぼ同じ記述をのせるが,(2)は延暦十九年三月十四日〜四月十八日,(7)は永禄四年(1561)としている.
 さらに注意すべきは,Wada (1884)は,上述の噴火(1)について「溶岩が桂川を下って猿橋に達した」,(4)について「溶岩流が富士吉田に達した」等の簡単な噴火記述を述べた後に, (4)と(8)に関する詳細な記述を「Klaprothの記述」から引用している.この「Klaprothの記述」は, Titsingh and Klaproth (1834) の年代記(すなわち,『日本王代一覧』の翻訳本)をさすと思われる(小山,1998a).また,(5)〜(7)についてはKlaprothの記述にないとして噴火の内容を何も記述していない.
 つまり,Wada (1884)は,(1)と(4)以外の噴火の具体的な記述を下吉田の史料から得ていないようである.また,1560〜1561年は『妙法寺記』や『王代記』などの信頼性の高い年代記に記述された時代にあたるが,両史料にはこの時期の富士山の異常について何も書かれていない.
 よって,現状では1560(1561?)年噴火の存在は疑わしいと判断せざるを得ない.なお,Wada (1884)が記述する(1)の内容「溶岩が猿橋まで達した」,および(4)の内容「溶岩が富士吉田まで達した」は地質学的には誤りであり,それと同様の記述は「宮下文書」中の史料にしばしば見られる(小山,1998b).Wada (1884)が得た下吉田の史料は,おそらく「宮下文書」またはその派生文書か,その他の信頼性の低い地方史料だろう.


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