『妙法寺記』に「永正八辛未(中略)此八月大原ヘ天狗共寄テ三ヒ時ノ声ヲ作ル也 村ノ人々皆舌スクミテ物云事アタハス又富士山ノカマ岩燃ル也」とある.『妙法寺記』は室町〜戦国時代の甲斐国都留郡を舞台とする年代記であり,現在の山梨県南都留郡河口湖町にある日蓮宗妙法寺の僧が書き伝えたものと推定され,多数の異本の存在(名称も『勝山記(かつやまき)』などさまざま)が知られている.『妙法寺記』と系統の異なる写本とされる『勝山記』(都留市史資料編に収録)の記述も上とほぼ同じである.なお,武者(1941)は『妙法寺記』のほかに,『妙法寺旧記』からの引用としてほぼ同じ文「永正八年,富士山鎌岩焚」を引用している.『妙法寺記』の異本のひとつとして『妙法寺旧記』の名前が知られているので,それを参照したのだろう.
永正八年(1511)八月に「富士山ノカマ岩」が燃えたという.この記述だけでは山火事も疑われるが,カマ岩の場所と言われる富士吉田口登山道六(〜七?)合目付近(後述)には植生がほとんどないので考えにくい.前項(永享七年)の例と同じく,噴火と考えるのが妥当であろう.
また,その直前の文「大原ヘ天狗共寄テ三ヒ時ノ声ヲ作ル也 村ノ人々皆舌スクミテ物云事アタハス」に注意すべきである.「大原」は,河口湖南岸一帯を占めた都留郡大原庄のことである.この記事は,大原庄において異常な鳴動が聞こえたことを伝えていると思われ,火山活動に起因するものかもしれない.
松平定能が編纂し文化十一年(1814)に完成した『甲斐国志』(巻之三十五)に「六合目此邊凡テカマ岩ト云遠ク望メハ岩ノ形カンマンノ梵文ニ似タリ故ニカク稱スルモ既ニ久シキ事ニヤ大原舊記(勝山記カ)ニ永正八辛未年八月富士山鎌岩モユルトアリ此巌間ヨリ今モ時々煙立ツ事アリ火気伏シタルニヤ」とある.同じ頃成立した江湖浪人月所による『隔掻録(かくそうろく)』にもほぼ同じ内容が書かれており,都留郡から富士山頂への登山道の道順にしたがって各場所の地誌が述べられている箇所にある.つまり,カマ岩というのは都留郡から富士山頂に登る道(おそらく富士吉田口登山道)の六合目付近らしい.
なお,「鎌岩」という地名は,1491年頃に記された『日国覚書』にも記されているから(堀内,1995),「鎌岩」自体が1511年の噴火産物というわけではなさそうである.
一方,江戸末期(1840年から1846年の間)に成立した絵画帳『富士山明細図』(小澤隼人・筆)には,富士吉田登山道の七合目と七合五勺目の間に「カマイハ(神満岩)」が描かれている(富士吉田市歴史民族博物館,1997).前述の「鎌岩」が「神満岩」と同じであるとすれば場所が若干異なることになるが,不一致の原因についてはわからない.なお,現在の富士吉田口登山道の七合目に「鎌岩館」という山小屋があるが,由来は調べていない.