『王代記』に「永享十一年己未(中略)同五年癸丑九月十六日夜大震動シテ六地蔵コロフ.同七年乙卯ニ富士ノ火炎見ヘタリ」とある.清水・服部(1967)によれば,『王代記』は現山梨市にある窪八幡宮の別当上之坊普賢寺に伝わる年代記であり,同寺の僧が甲州内外の治乱について見聞したところを書き伝えたものらしい.次項で述べる『妙法寺記』とともに,信頼性の高い良質史料と考えられている.
永享七年(1435年1月30日〜1436年1月18日の間)に富士山に火炎が見えたという.山梨市付近(富士山の北35km)から富士山を見ると,六合目(海抜2400m付近)以上の植生のない部分しか見えないから山火事とは考えにくい.次の1511年記事と同様,噴火したと考えたほうがよいだろう.
なお,火炎望見記事の直前にある「同五年癸丑九月十六日夜大震動シテ六地蔵コロフ」という1433年10月28日の地震記事は,当時京都で書かれていた日記『看聞御記(かんもんぎょき)』などの複数史料に京都で有感であったこと,鎌倉に大被害があったことが記載されており,信頼性が高い.
この地震については震源や規模があまり明らかにされていないが,鎌倉と甲府盆地に被害があったことと京都で有感だったことを考えれば,マグニチュード(以下,M)7クラスかそれ以上の規模と考えてよいだろう.石橋(1994)は,この地震が相模トラフ地震であった可能性を指摘している.富士山の永享七年噴火が事実とすれば,この地震の約2年後ということになる.
この噴火は,「炎」が見えたとあって「煙」の記述がないことから,溶岩流を流出する穏やかな噴火であった可能性がつよい.甲府盆地から見える,六合目より高い場所に給源をもつ溶岩流,たとえば標高2700〜2900m付近に給源火口のある大流溶岩に対比できるかもしれない.