前出の『中右記』の天永三年十月条に「廿二日(1112年11月13日)(中略)從一昨日,東方有鳴動聲,其響如打大鼓,衆人驚奇,不知何所,廿三日丁未 天晴,巳時許大鳴動,世間驚恐極,是何徴哉(中略)廿四日 早旦從院有召,則参入,雖御物忌參殿上,攝政令參給,大藏卿参入,以長實朝臣被仰云,從去廿日有鳴動音,于今不止,甚所懼思食也,何様可被沙汰事哉」とあって,天永三年十月二十日(1112年11月11日)に京都で東方から鳴響が聞こえ,人々が怯えたことがわかる.その後,十一月二日(11月22日)にも鳴動があったことが,『中右記』に「二日 天晴,巳時許大有鳴動,聲如我頭響,大略天之所為歟,非東國山聲歟,甚不得心事也」と記されている.
また,同じく『中右記』天永三年十月条に「(同月)廿九日(1112年11月20日)(中略)又或人來談云,此日者當東方夜晝有鳴動聲,不知何所之間,從坂東國上洛下人云,駿河國富士山□動也,又火炎高昇,近隣國々騒動云々,但未進國解之間,不知實説也」とあり,東国から来た者が富士山噴火の発生を伝えたとある.しかし,『中右記』の筆者は,当該国からの報告が未着として判断を保留した.
静岡県(1989)および原(1996)は,上の記事の存在から富士山が噴火したと判断している.もしそれが事実なら,以下の史料記述が示すように,伊豆七島の火山も富士山と同時噴火していたことになり,重要である.
しかしながら,摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』の同年十一月条に「廿四日(1112年12月14日),丁丑(中略)頭弁来云,伊豆国解持来,東方鳴事也,解状云,海大鳴両三日」とあり,伊豆国からの報告によって鳴響は海上から聞こえたことが判明した.さらにその3日後の十一月二十七日(12月17日),『中右記』に「廿七日(中略)予不能参逢,但不出御南殿,是去月天下鳴動御祈者,入夜予参内,是依可行軒廊御卜也」とあって,東方鳴響事件の軒廊御卜(事件の吉凶を占う祭事)がとりおこなわれているが,そこには「伊豆國司申海上神火事,吉凶可占申者」「伊豆國解云,去十月中下旬之比,海上火出來,鳴動如雷者,是去月天下鳴動聲,大略此響歟,希有奇恠第一之事也」とあるのみで,富士山のことが一言も言及されていない.
以上のことから判断して,結局朝廷は東方からの鳴響の原因を富士山ではなく,伊豆国の海上に見えた噴火(おそらく伊豆七島火山列のどこか)と判断したように見える.先の東国から来た者からの伝聞は,誤った情報を伝えていたのだろう.