延暦寺の僧皇円が著した史書『扶桑略記(ふそうりゃっき)』(11世紀末〜12世紀初め成立)に「(永保三年)三月廿八日,有富士山焼燃恠焉」とあり,1083年4月17日に富士山が噴火したらしいことがわかる.残念ながら,この時期の貴族の日記の数や現存状況は限られており,次項の1112年京都鳴響事件のような生々しい同時進行の記録は見つかっていない.
しかしながら,1112年京都鳴響事件の際には,京都の貴族たちの間で富士山噴火のことが言及されている.鳴響の原因として,富士山と浅間山の噴火可能性が噂されるのである.権中納言藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』の天永三年(1112)十月条に「廿四日(中略)下人説云,駿河國富士山并信濃國朝間峯焼落之時,其聲振動,遠聞天下,若是如此事歟云々,仍被尋之處,從尾張國上道下人云,從彼國猶當東方有此聲者,彌有其疑」とある.すなわち,富士山噴火の時も浅間山噴火の時も,このような音がしたと説く者がいた.
このうちの浅間山の噴火は,嘉承三年/天仁元年(1108)の噴火(早川・中島,1998)を指すことは間違いない.富士山の噴火がいつのものを指すのかは明らかでないが,当時の人々の記憶に新しいものであるとすれば,『扶桑略記』が記述する1083年噴火に相当する可能性がつよく,1083年の富士山噴火による鳴響が京都で聞こえたことになる.
1083年以後,2〜3年間にわたって日色・月色異常記事が目立つ.「(応徳二年)四月廿七日(1085年5月23日),申時,薄蝕,日色如血,天光入山」,「(同年)八月十五日丙子(1085年9月6日),亥時,月蝕皆既,月色似紅,无光天暗」,「応徳三年丙寅正月十九日戊申(1086年2月5日),々刻,日色赤如朱,全以无光気矣」(いずれも『扶桑略記』)である.この大気異常が1083年の富士山噴火と関係するかどうかは不明である.この時期の日本の他の火山噴火として知られているのは三宅島の応徳二年(1085)噴火(月日不明)のみである.この噴火の堆積物としては百万立方m程度の溶岩流しか知られておらず(津久井・鈴木,1998),大気異常を起こすとは思えない.世界的にもこの時期にVEIが3を越える噴火は知られていない(Simkin
and Siebert, 1994).
なお,「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『噴火年代記』)が1083年の富士山噴火について言及している.『高天原変革史』に「永保三丙辰年七月,又七箇所依り噴火し,熱湯氾濫たり.此之時終に熄み,其余脉伊豆国大嶋に伝延し,鳥羽天皇天永三壬辰年(1112)依り同嶋に噴火始る也」とあり,『噴火年代記』の記述もほぼ同じである.これらの記事が真実だとすれば,1083年噴火の後,富士山にはしばらく噴火が生じなかったことになる.
富士山噴火にともなう鳴響が京都に達したのなら,強い爆発をともなったことが間違いないから,テフラの分布が地層として確認できる噴火の中から候補が選ばれるべきだろう.