『更級(さらしな)日記』は,菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が1060年頃に自分の半生を回顧して著した自伝であり,その冒頭付近には13歳の頃にみた富士山の情景が書かれている.
彼女は,家族とともに父の仕官地の上総国を寛仁四年九月三日(1020年9月22日)に発って京都へと東海道を旅する途上で,足柄峠を越えて富士山の東麓から南麓を通過している.富士山の姿については,「さまことなる山のすがたの,紺青をぬりたるやうなるに,雪の消ゆる世もなくつもりたれば,色こき衣に,白き袙着たらむやうに見えて,山の頂のすこし平ぎたるより,煙は立ちのぼる.夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と記述している.
菅原孝標女は富士山麓での降灰や鳴動の体験を記述していない.『更級日記』は彼女の感受性の豊かさがみごとに表われた作品だから,もし彼女が噴火にともなう降灰や鳴動を体験していれば間違いなくそのことを書いたと思われる.よって,彼女が見た富士山は,噴気を漂わせていたとはいえ噴火中のものではなく,「夕暮は火の燃え立つも見ゆ」という記載は火映現象を記述したものと考えられる.
つまり,1020年の秋,富士山の山頂火口には赤熱した溶岩湖または(夜間に赤熱光を出すほどの)高温の火山ガス放出現象があった.このことから,当時の富士山の火山活動は(噴火中でないとはいえ)高いレベルの状態にあったことがわかる.