火山としての富士山Q&A

火山としての富士山について,よく質問されることにQ&A形式で回答してみました(静岡大学教育学部 小山真人).

Q1.富士山はいつ,どのようにして生まれたのですか?
Q2.富士山は,どのような噴火の歴史をたどってきたのですか?
Q3.富士山は生きている火山なのですか? 今後も噴火するのですか?
Q4.富士山噴火と東海地震は,たがいに関係があるのでしょうか?
Q5.富士山のハザードマップがいま作成されていると聞きました.現状や見通しを教えてください.また,どうして今まで作られていなかったのですか?
Q6.富士山の代表的な噴火口を紹介してください.
Q7.富士五湖や青木ヶ原樹海は,どのようにして生まれたのですか?
Q8.噴火で付近の住民にたびた被害をあたえてきた富士山が,なぜ霊峰として崇められるようになったのでしょうか?
Q9.富士山のまわりにある風穴(ふうけつ)や氷穴(ひょうけつ)は,どのようにしてできたのですか?
Q10.富士山の麓では,どうして地下水が豊富なのですか?
Q11.大沢崩れが進行していると聞きます.大沢崩れが富士山の美しい形を変えてしまう心配はないのでしょうか?

Q1.富士山はいつ,どのようにして生まれたのですか?
 富士山は,10万年ほど前に誕生した火山です.富士山誕生以前の50万年前くらいの時点での駿河湾は,今よりずっと奥が深い湾で,海岸線も今の位置よりずっと北にありました.現在の富士山の地下には,かつての駿河湾の一部が隠されているのです.そして,その後駿河湾を埋め立て,今ある富士山麓の広大な平坦地を作り出した作用こそが,火山の営みに他ならないのです.
 まず,40万年ほど前から愛鷹(あしたか)山や小御岳(こみたけ)や箱根山などの火山が噴火を始め,大量の土砂を地表にもたらし始めました(図1上).10万年ほど前になって,小御岳と愛鷹山の間で新しい火山が産声(噴煙)を上げ始めました.富士山の誕生です.最初は小さな火山であった富士山は,噴火のたびに成長し,今では小御岳の大部分と愛鷹山の北半分を埋め,それらの古い火山よりもさらに高くそびえ立つ立派な火山に成長したのです(図1下).
 日本の多くの火山の寿命は50万年から100万年と長いものであり,まだ10万才である富士山は人間にたとえれば10才の小学生くらいの,元気いっぱいの火山と言ってもよいのです.

  図1 富士山のおいたち(国土交通省富士砂防工事事務所発行の「富士山火山防災ハンドブック」より).

Q2.富士山は,どのような噴火の歴史をたどってきたのですか?
 富士山の山麓に残されているおびただしい量の火山灰・火山れき・溶岩流などの噴火堆積物や,いにしえの人々が書き残した噴火の目撃記録から,富士山の噴火の歴史をさぐることができます.
 今から1万1000年〜8000年ほど前には大量(およそ40億立方メートル)の溶岩が流出し,その一部は現在の静岡県三島市や山梨県大月市の猿橋(さるはし)付近にまで達しました.この時の溶岩の一部(三島溶岩)を,たとえばJR三島駅付近の道路ぞいや公園や川岸で観察することができます(写真1).

写真1 三島駅近くの黄瀬(きせ)川にかかる鮎壺(あゆつぼ)の滝.遠景に富士山が見えている.滝をつくっている地層は,およそ1万年前の大規模な噴火の際に富士山から流出した三島溶岩である.

 およそ2500年前には富士山の東斜面が大規模な山体崩壊をおこし,崩落した土石がなだれ(御殿場岩なだれ)となって東側の山麓を埋めつくしました.現在の静岡県御殿場市や小山(おやま)町一帯で,このときの堆積物をみることができます(写真2).大崩壊の直後の富士山は,今の姿からは想像しにくい醜い形をしていたと思います.しかし,その姿もまた変わりゆく自然の一幕なのです.その後もたびたびおきた噴火が大崩壊の傷跡をすっかり癒し,ふたたび富士山を美しい円錐形の火山に変えてくれました.

写真2 須走(すばしり)口登山道ふきんの谷間の崖に見られる地層の積み重なり.ここに写っている地層だけで,過去3000年間の噴火の歴史を読み取ることができる.中央やや下にある大石をふくむ赤味がかった地層が,およそ2500年前に富士山が大崩壊したときの土砂の層である.

 人間が書きとめた富士山の噴火や噴煙の目撃記録が,8世紀頃からさまざまな文書や絵図に残されています.よく知られた万葉集や更級(さらしな)日記にも,当時の富士山の噴火や噴煙の状況を知る手がかりが残されています.これらの記録から,歴史時代においても富士山が活発な火山活動をくりかえしてきたことがわかっています.
 江戸時代の宝永(ほうえい)四年(1707年)に富士山の南東山腹でおきた噴火(宝永噴火)は,たった半月の間に7億立方メートルのマグマが噴出するという,とても激しい噴火でした.宝永噴火は,東麓の須走付近で2m,横浜でも10cmほどの厚さの火山灰を堆積させた大噴火でした(写真3).そのころ江戸に住んでいた新井白石(あらいはくせき)の日記によると,この降灰によって昼でも行灯(あんどん)をつけなければいけないほど空が暗くなったそうです.

写真3 宝永噴火によってもたらされた火山れき層.宝永噴火では,初期に白色の軽石が降り,その後黒色の玄武岩質火山れき(スコリア)が降り続いた.中部にある厚さ15cmの白色層の底面が宝永噴火直前(1707年12月16日)の地表面であり,白色層が初期に降った軽石,その上位の厚さ2.5mのしましまの黒色層が軽石の後に降ったスコリアである.

Q3.富士山は生きている火山なのですか? 今後も噴火するのですか?
 今から25年ほど前に東海地震説がクローズアップされたのをきっかけとして,20年ほど前までに東海地震予知のための地震観測網が整備され,高感度の地震観測が始まりました.ところが観測を始めてみると,富士山の地下深くで奇妙な小地震が時々起きていることが発見されました.「深部低周波地震」と呼ばれるこの地震は,通常の地震よりもゆっくり揺れる性質をもった地震で,火山の地下深部にあるマグマの活動が起こす地震と考えられています.富士山はやはり生きている火山であることが地震観測によって確かめられたのです.
 この地震はその後もほぼ一定の割合で(年十数回〜数十回程度)発生してきたのですが,2000年の秋と2001年の初夏に,その回数が目立って増えた時期がありました.地震の起きる場所は,それ以前と変わらない深い場所(地下10〜20km)なのですが,地下のマグマ活動が一時的に高まったのだと考えられています.
 ただし,マグマ自体が地表に向かって上昇を始めた形跡はないので,今の段階ではそれほど気に病む必要はありません.また,観測の歴史自体が20年と浅いので,20年以上前にもこのような地震活動の高まりが人知れず起きていた可能性もあるのです.今後どうなるかはわかりませんが,眠っている富士山が少しだけ寝息が荒くなった状態というくらいに考えて結構だと思います.
 マグマが本当に地表に向かって上昇を始めれば,さらに浅い部分での群発地震や,山体が伸びるなどの地殻変動が観測されるはずです.現在そのような事態には至っていませんが,万が一の時の噴火予知のための観測網のさらなる整備と,住民や観光客の安全を守るための火山防災マップ(ハザードマップ)の作成が進められています.

Q4.富士山噴火と東海地震は,たがいに関係があるのでしょうか?
 宝永噴火は,同じ年におきた東海地震(宝永東海地震,マグニチュード8.4)のわずか49日後に起きたため,地震が引き金となって火山噴火がおきた典型例と考えられています.噴火の十数日前から,富士山の山鳴りがたびたび聞こえたという記録が残されています.
 実は,宝永東海地震の4年前(1703年)に相模湾の海底の地下でおきた元禄(げんろく)関東地震(マグニチュード8.2)の直後にも,4日間にわたって富士山から山鳴りが聞こえたという別の記録があります.元禄関東地震の後には噴火まで至らなかった富士山が,宝永東海地震の後についに噴火に至ったわけですが,両者の差を生んだ条件や原因はまだはっきりと解明できていません.
 以上2つの事例がとくに典型的なものですが,その他にも富士山付近で起きた大地震の前後に,富士山の火山活動に何らかの変化が生じたとみられる例がいくつかあります.地震によって生じた地殻ひずみの変化か,あるいは地震の揺れそのものが,富士山のマグマだまりに力学的な影響を与えて,火山活動の変化を引き起こしたと言えそうです.
 ただし,上述の元禄鳴動事件の例でわかるように,いくら地震によって火山が刺激を受けたとしても,噴火にまで至るためには火山自身の準備が相当整っている必要がありますから,たとえば次の東海地震が起きたとしても必ず噴火が起きるわけではないことを十分理解しておいてほしいと思います.

Q5.富士山のハザードマップがいま作成されていると聞きました.現状や見通しを教えてください.また,どうして今まで作られていなかったのですか?
 火山の防災マップ(いわゆるハザードマップ)は,将来起きるであろう噴火の場所・規模・様式などをあらかじめ予測して地図に描き,それとともに避難場所や防災に必要な知識を説明したものです.日本の86活火山のうち,20数火山においてすでに作成されています.富士山のハザードマップは,1980年に学者が初めて簡単なものを作成して以来,何度か試作品が作られてきましたが,住民に対して広く周知されたと言えるものはまだありません.その理由は,ハザードマップの公表が観光に悪影響を与えはしないかと,地元の自治体や観光業者が心配し消極的になっていたからです.
 しかし,2000年に起きた有珠山や三宅島の噴火によって火山噴火の危険性の認知度が高まり,有珠山の噴火ではあらかじめ作成されていたハザードマップが実際に大活躍しました.そのような状況によって,地元自治体や住民の意識が変化し,積極的に富士山のハザードマップを作ろうという機運が生まれたのです.
 2001年6月に,国と地元自治体によって富士山ハザードマップ作成協議会が結成され,専門家と行政官から構成された富士山ハザードマップ検討委員会に正式に作成が諮問されました.現在,富士山ハザードマップ検討委員会の2つの部会(基図部会と活用部会)によって,マップそのものの作成作業と,作成後のマップの活用方法の検討作業が進められています.その詳しい作業状況は,内閣府のホームページ(http://www.bousai.go.jp/fujisan/h_map/map.htm)で公開されています.2003年3月をめどに,富士山ハザードマップの最初の公式版が完成・公開される予定です.

Q6.富士山の代表的な噴火口を紹介してください.
 もっとも代表的な噴火口は,富士山の山頂火口です(写真4,5).「お鉢(はち)」とも呼ばれるこの火口は,直径が700mもある巨大なもので,過去数100回もの激しい噴火をくりかえしてきました.しかし,どういうわけか約2200年前に起きた大噴火を最後に,山頂火口は目立った噴火をしなくなって現在に至っています.

 写真4 富士山の山頂火口.左側のへりに見える建物が富士山測候所.



 写真5 山頂火口の内部にみられる美しい地層の積み重なり.赤や黒の一枚一枚の地層が,山頂火口から起きた噴火の歴史を物語っている.一番上にのる赤い地層は,2200年前に山頂火口で発生した大噴火によって噴出した火山れき層である.

 毎年夏に富士山頂を訪れる多数の登山客がこの山頂火口を見ているはずですが,彼らの多くは下界の景色にばかり心を奪われていて,この大自然の驚異をじっくり観察する人はまれです.この山頂火口の様子は9世紀に書かれた書物(都良香の『富士山記』)にも詳しく記述されており,その内容から平安時代の頃は蒸気をさかんに上げる火口湖があったことも明らかになっています.
 2200年前以降の富士山の噴火は,山頂火口から離れた山腹や山麓で起きるようになりました.その噴火の中でも最大のものは,上述した宝永噴火を起こした大きな火口(宝永火口)であり,現在も東海道新幹線の車窓からよく見えます(写真6).宝永火口は,富士宮口5合目の駐車場から歩いてわずか30分の距離にあり,家族連れのハイキングや小学校の遠足などでも賑わっています(写真7).

 写真6 富士市田子の浦付近から見た富士山.右手山腹(南東斜面)に口を開いた宝永火口がよく見える.

 写真7 1707年に起きた宝永噴火によって5合目付近の山腹にできた宝永火口.火口のへりにある高まりの部分は宝永山と呼ばれている.

Q7.富士五湖や青木ヶ原樹海は,どのようにして生まれたのですか?
 平安時代の貞観(じょうがん)六年(864年)に,富士山の北西山腹で大規模な割れ目噴火(貞観噴火)が起きました.このとき流出した2億立方メートルにおよぶ青木ヶ原溶岩によって湖が埋めたてられ(写真8),富士五湖のうちの3湖(本栖湖,精進湖,西湖)がほぼ現在の形になりました.
 このうちの精進(しょうじ)湖と西(さい)湖は,青木ヶ原溶岩によって分断される以前は,「せのうみ」と呼ばれるひとつの巨大な湖でした.つまり,貞観噴火の前は,富士五湖は「富士四湖」だったのです.青木ヶ原溶岩は本栖湖にも流れ込み,湖の東側を少しだけ埋め立てました.その後,青木ヶ原溶岩の上には森林がよく成育し,現在の青木ヶ原樹海となっています.

 写真8 本栖(もとす)湖に流れ込んで冷え固まった青木ヶ原溶岩.西暦864年の噴火で富士山の北西斜面から流出した.

 平安時代以前にも,大規模な溶岩流が何度か湖の形を変化させました.そもそも,これらの富士山麓の湖自体が,溶岩流によって川がせき止められて誕生したものですが,まだ詳しい誕生の経緯はわかっていません.河口湖と山中湖の間の,現在の忍野(おしの)村のある盆地も,7000年くらい前までは湖(忍野化石湖)だった証拠が見つかっています.

Q8.噴火で付近の住民にたびた被害をあたえてきた富士山が,なぜ霊峰として崇められるようになったのでしょうか?
 奈良時代から平安時代にかけて,富士山は数十年に1度というひんぱんな噴火を繰り返しました.その中には,後で述べるような貞観噴火のような大規模な噴火も発生しました.この時期の富士山は明らかに畏怖の対象であり,神の怒りである噴火を鎮めるためにあちこちに神社が創建されたり,神社の位の格上げがおこなわれたりしました.
 ところが中世以降の富士山では噴火が下火になったうえ,前述した宝永噴火以外の噴火は小規模で穏やかなものが多かったのです.激しい宝永噴火もたった半月で終わりました.中世以降の富士山は,わずかな噴火期間を除く圧倒的に長い時間,神々しいおだかな姿を見せていたのです.このため,畏怖の念が徐々に畏敬の念に置き換えられたのだと考えています.

Q9.富士山のまわりにある風穴(ふうけつ)や氷穴(ひょうけつ)は,どのようにしてできたのですか?
 富士山のあちこちに○○風穴や○○氷穴と名付けられた洞窟が多数存在しますが,それらの大部分は,火山学的には「溶岩トンネル」と呼ばれるものです.溶岩トンネルは,噴火の際に流出した溶岩の表面だけが冷え固まった状態の時に,中身のどろどろに溶けた部分がさらに先にまで流出してしまった後に残されたチューブ状の穴です.富士山と同じように流動性の高い溶岩を流出する火山(ハワイのキラウエア火山など)でも多く見られます.

Q10.富士山の麓では,どうして地下水が豊富なのですか?
 上述したように,富士山の溶岩流の中には無数の空洞(溶岩トンネル)が存在します.また,溶岩流の中には,溶岩トンネルのほかにも無数の割れ目や岩石のすき間が存在します.富士山に降り注いだ雨や雪解け水が,これらの溶岩中の空間を満たしていて,富士山全体が巨大な水がめとなっています.
 そして,これらの水は,重力の作用にしたがって下流へと流れ続け,麓からこんこんとわき出しています.富士山全体での湧水量は,一説には毎日500万トン以上とも言われています.有名な柿田川の湧水(写真9,10),忍野八海(おしのはっかい),富士宮浅間神社の湧玉(わくたま)池などがそのような場所にあたります.このような湧水は,観光スポットとなって人々の生活に彩りを与えるだけでなく,工業用水としても利用され富士山麓でのさまざまな産業の支えともなっています.

 写真9 柿田川の水源地.三島溶岩の末端からわき出た水がここから流出し,川となって狩野(かの)川に注いでいる.

 写真10 柿田川の水源地にある湧水の流出口のひとつ.

Q11.大沢崩れが進行していると聞きます.大沢崩れが富士山の美しい形を変えてしまう心配はないのでしょうか?
 富士山の大沢崩れでは,毎年平均20万立方メートルもの土砂が崩れています(写真11,12).この土砂はいったん中腹部に溜まった後,大雨の時に一気に土石流となって麓へと流出します.このため,大沢崩れの下流では国の直轄事業による大規模な砂防工事がおこなわれ,麓に暮らす人々の生命や財産が守られています.

 写真11 富士山大沢崩れの源頭部.山頂のすぐわきから崩壊が始まっている.

 写真12 大沢崩れの中流部にみられる崖.崖の断面に見える縞々は,噴火で流出した溶岩流の積み重なりである.

 ただし,毎年20万立方メートルの土砂は確かにたいへんな量なのですが,富士山は山自体が大きいので,大沢崩れが今の形になるのでさえ2000年以上かかっています.ですから,ほっておくと今にも富士山の形が変わってしまうように大沢崩れのことを心配する人もいますが,そのような心配はほとんど無用のものです.
 それに,富士山には自然がおこなう自己修復作用が備わっているのです.Q2の噴火の歴史のところで述べた2500年前の山体崩壊事件のことを思い出してください.このときは富士山の東山麓に11億立方キロメートルもの土砂が崩れ落ちましたが,そのときできたはずの傷跡は,その後に引き続いた何度かの噴火によってすっかり癒されています.
 江戸時代に起きた宝永噴火は,7億立方メートルもの岩石を空に吹き上げました.単純に計算すると,大沢崩れで崩れている岩石の何と3500年分もの量の岩石が,たった半月で噴出したことになります.大沢崩れが3500年間かけて刻んだ谷を,たった半月で修復してしまうポテンシャルを秘めたもの,それが火山の噴火なのです.このように,長い目で見れば富士山の美しい形は,火山の噴火の力によって常に守られてきたとも言えるのです.


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