(別冊歴史読本77「古史古伝と偽書の謎」2004年より)

富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』

現代火山学から見た『宮下文書』噴火記述の信憑性

小山真人(静岡大学教育学部総合科学教室)

1.はじめに
 富士山には,かつて歴史時代の3大噴火として数えられた噴火がある.それらは古い順に,延暦19〜21年(西暦800〜802年),貞観6年(864年),宝永4年(1707年)の噴火である.
 このうち宝永噴火は富士山南東山腹で起きた大規模かつ爆発的な噴火であり,多数の目撃記録が現存する.貞観噴火では,北西斜面で流出した大量の溶岩(青木ヶ原溶岩)が当時あった湖を埋めた結果,現在の富士五湖のうちの3湖(本栖湖,精進湖,西湖)が現在の形となった経緯が詳しく調査されている.宝永噴火と貞観噴火は,噴出したマグマ量も詳しく推定されており,歴史時代において文字通り1,2を争う規模の噴火であったことに間違いはない.ところが,3つめの延暦噴火だけは,火口位置,噴火推移,噴火規模などの詳細がほとんどわかっていなかった.
 かつて延暦噴火が歴史上の3大噴火のひとつとして数えられた理由は,古記録に残された噴火記述にある.『日本紀略』の延暦噴火記事として「富士山嶺自焼,晝則煙気暗冥,夜則火光照天,其聲如雷,灰下如雨,山下川水皆紅色也」とあり,降灰を主とする爆発的な噴火であったことがわかる.また,同じく『日本紀略』に「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也」とある.つまり,噴石で塞がれた旧道の足柄路を捨て,新たに箱根路を開いたというのである.街道を付け替えなければならないほどの噴火なら,大噴火として数えてもよいだろうという訳である.なお,『日本紀略』の延暦22年5月条に「廃相模国筥荷路,復足柄舊路」とあり,噴火の翌年になって足柄路は復旧に至っている.

2.延暦噴火の火山学的調査結果
 街道を廃するほどの厚い火山灰であれば,その堆積物が現在も残っていることが期待される.宝永噴火の場合は,富士山東麓で2m以上もの厚さの火山灰層を今も見ることができる.ところが不思議なことに,延暦噴火については,その堆積物として確実に同定できる厚い火山灰層が,東麓のどこにも見当たらないのである.
 以前からこのことに疑問を感じていた筆者は,野外地質調査と史料調査にもとづく延暦噴火の研究を実施した.地質調査の結果,延暦噴火は富士山の東斜面(西小富士噴火割れ目)と北西斜面(天神山-伊賀殿山噴火割れ目)の,少なくとも2ヶ所の割れ目噴火として生じたと推定された.この2ヶ所の火口からは,火山灰のほか溶岩流も流出し,主として北麓にその被害が及んでいる.つまり,延暦噴火は,『日本紀略』の記述から予想される東麓ではなく,主として富士山の北麓に被害を与えた噴火だったのである.
 噴火規模についても検討を加えた結果,延暦噴火で噴出したマグマの総量はおよそ8000万立方メートルと計算され,富士山の噴火としては中規模の範囲(2000万〜2億立方メートル)の中に位置づけられた.これに対して宝永噴火は7億立方メートル,貞観噴火は13億立方メートルであり,噴火規模から見た場合,延暦噴火はとても3大噴火のひとつとして数えられないことが明らかとなった.

3.古代東海道移設の謎
 延暦噴火の際に富士山東麓に大した被害がなかったのに,なぜ足柄路をわざわざ箱根路へと移し替える必要があったかという疑問が,ここで生まれる.そこで,史料の分析によって,古代東海道の一部あるいはその分岐道が富士山北麓を通っていた可能性を検討することにした.もしそのような事実があれば,主として北麓に被害を与えた噴火堆積物の分布から考えて,延暦噴火は富士山北麓にあった街道を移し替える十分な動機となり得るからである.
 正史に残る延暦噴火の記述はごく限られたものであり,街道の変遷に関して従来知られている以上の知見を得ることはできなかった.ところが「宮下文書」と呼ばれる一連の史料には,延暦噴火以前の東海道が富士山北麓を通過していたことと,その街道が延暦噴火によって大きな被害を受けて南麓に移し替えられたことが,絵図付きで詳細に記述されていたため,非常に驚いた.もし,それらの内容が真実であれば,火山学的な検討から生じた古代東海道移設についての疑問は氷解する.
 しかしながら,「宮下文書」は,ほとんどの歴史学者から史料価値を全く認めてもらえない文献であることも,今ではよく理解している.ただし,口碑伝承などによって伝えられた真実の断片が拾われている可能性が否定されているわけではない.また,「宮下文書」には正史に書かれていない多数の富士山噴火記述(延暦噴火以外も含む)があり,それらが信頼できるならば富士山の噴火史を調べる上での大変貴重なデータ源となりえる.そこで,「宮下文書」中の延暦噴火記事の内容がどこまで信頼できるかを,現代火山学の知識に照らして客観的に分析することにした.

4.「宮下文書」の噴火記述に対する火山学的検証
 「宮下文書」中の延暦噴火記事の解読と評価を,「宮下文書」の影印版である「神伝富士古文献大成」全7巻(八幡書店,1986年刊)にもとづいておこなった.「宮下文書」中の噴火記事は断片的なものを含めればかなりの数になるが,ある程度の分量をもつ以下の7史料を選んだ.
  『富士山中央高天原変化来暦』
  『富士山大噴火都留駿河富士三郡変化記』
  『福地山大噴火記』
  『福知山神官伊勢参詣記』
  『不二山高天原変革史』
  『相模国寒川神社日記録落穂集』
  『富士山噴火年代記』
 これら7史料から抽出した延暦噴火記事の要点は,以下の10項目である.

△(1)72ヶ所から噴火した.
×(2)宇宙湖という湖が,溶岩流の流入によって2つの湖に分かれた.
△(3)せノ湖中央部に溶岩流が流れ込み,当初の大きさの半分ほどまで埋積された.
□(4)東麓に新山が生まれた.
×(5)太田川(大田川)という川が溶岩流によってせき止められ,新しい湖ができた.
△(6)御舟湖という湖に溶岩流が流入した.
×(7)大月市猿橋付近まで溶岩流が流れた.
△(8)溶岩流が愛鷹山の山裾に達し,2筋に分かれた.
×(9)富士市大淵付近まで溶岩流が流れた.
×(10)小山町竹之下付近まで溶岩流が流れた.

 項目の頭に付した記号は,これまで判明している地質学的事実に照らして評価した結果,である.それぞれの記号の意味を以下に記す.
△:真偽について既知の地質学的事実から判断できないので,検証のためにはさらなる地質調査が必要である.
□:地質学的事実の通りであるが,正史にも書かれていることであり,「宮下文書」独自の記事とは言えない.
×:既知の地質学的事実にもとづいて,明らかに誤りと判断できる.

 紙数の関係で,これらの判断理由のすべてをここで述べることはできないが,例として(2)の「宇宙湖」の分裂に関する結果の概略を述べよう.結果の詳細や他の噴火記述の検証結果については,末尾に挙げた文献を参照してほしい.
 鷹丸尾溶岩は,現在の山中湖と忍野盆地の間を横切り,両者を地形的に隔てている.このことから,かつて宇宙湖という大きな湖が存在し,鷹丸尾溶岩のせき止めによって忍野湖と山中湖に2分されたとする「宮下文書」の記述が,一見正当なように見える.
 しかしながら,「宮下文書」の絵図に見られるような,現在の忍野盆地を湖として山中湖と合体させた巨大な湖を成立させるためには,975m以上の湖面標高が絶対に必要である.ところが,忍野盆地を流れる桂川の出口付近の現在の標高は高々920mであり,その付近にかつて975mもの高さの地形的障壁が存在した証拠は一切ない.つまり,「宇宙湖」の存在自体が,地形的に言ってありえないものである.
 以上のことから,鷹丸尾溶岩の山中湖への流入自体は地質学的事実と矛盾しないが,それ以前に忍野盆地まで広がる大きな湖「宇宙湖」があったという「宮下文書」の記述は大幅な誇張,あるいは空想と判断できる.
 上記10項目の検証結果のうち,△を付した項目の中には今後の調査によって実証されるものがあるかもしれないが,残念ながら現時点において「宮下文書」の噴火記述の信頼性は相当低いものと言わざるをえない.

富士山延暦噴火の噴火堆積物の分布と古代東海道の経路変遷

5.古代東海道移設の真相
 火山学・地形学・歴史地理学のいずれの見地から見ても大きな矛盾なく古代東海道の移設問題を説明する仮説として,以下のものを考えた.
 もともと古代東海道の主道は,従来の歴史地理学的な常識の通り,富士山南麓から東麓を通過していた.また,御殿場付近から分岐して甲斐国府に向かう街道が,延暦噴火前には山中湖西岸を通っていた.この山中湖西岸の街道が,延暦噴火の際に流出した鷹丸尾溶岩・檜丸尾第2溶岩の下に埋もれてしまった.また,富士山西麓をまわってせノ湖のわきを通り,北麓に通じる支道が存在した.この支道が,やはり延暦噴火の際に天神山-伊賀殿山噴火割れ目から流出した溶岩流に埋もれてしまった.そして,東海道の主道が通っていた御殿場付近にも西小富士噴火割れ目起源の火山灰が薄く降り積もった.また,大雨によって火山灰が洗い出され,土石流が御殿場付近の谷筋を頻繁に襲ったかもしれない.
 古代の駅路は緊急連絡用の道路でもあったというから,少しでも交通の安全に問題があれば経路を変更する必要があったであろう.延暦噴火は,甲斐国へ至る街道を不通にさせ,さらには相模国への重要分岐点にあたる御殿場付近にも脅威を与え始めたのである.甲斐国府へは東山道を経るという手段があるが,相模国への経路に対しては何らかの手を打つ必要が生じた.
 つまり,『日本紀略』の問題の記述「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」は,相模国に至る主街道ぞいの被害がさらに広がることを恐れて,降灰や土石流の被害が出始めた御殿場付近の街道の使用を一時的に停止した(そして,噴火が止んだのを見て,翌年復旧させた)とみるのが自然ではなかろうか.この場合,箱根越えの道についても,すでに存在していた支道を転用した可能性がつよいだろう.
 先に述べたように「宮下文書」の噴火記述には,大幅な誇張や明らかな誤りが多数含まれている.よって,東海道の経路や変遷を語る部分にも誇張や誤りがあるとみるのが自然である.「宮下文書」が口碑伝承を拾っているとしても,「宮下文書」中の東海道の被災記事は,御殿場付近から甲斐国府に至っていた街道や富士山北西麓を通っていた支道の被災の記憶を,大幅に誇張して伝えているのであろう.

参考文献


 静岡大学小山研究室ホームページへ