西暦79年にイタリアのヴェスヴィオ火山で起きたプリニー式噴火

小山真人「ヨーロッパ火山紀行」(ちくま新書)より再編集

ヴェスヴィオ火山の概要
 美しい地形上の役者をこれほど適当な位置に配置した入江は,世界的にみてもそう多くないだろう.ナポリ湾は,ローマの南東200kmほどのイタリア半島にある南西に開いた入江であり,湾口のさしわたしが約30km,奥行きが15kmほどの四角形をしている.入江の両端には岬があり,地形的な高まりをなしている.南東の岬がとくに長く険しい山地をなし,ソレントSorrento半島と呼ばれる.有名なカンツォーネ「帰れソレントへ」の歌の舞台である.また,北西側の岬付近には小火山群やカルデラがあり,まとめてカンピ・フレグレイ火山と呼ばれている.また,カンピ・フレグレイ火山の沖にはイスキア島がある.イスキア島にはいくつかの小火山が分布し,付近の海底に推定されたカルデラとともにイスキア火山と呼ばれている.カプリ島とイスキア島は,ナポリ湾の湾口を守るようにしてその両側に位置している.

ソレント半島からみたヴェスヴィオ火山


 
 そして,それらの地形的な立役者をしたがえ,ナポリ湾の最奥部にヴェスヴィオ火山が厳然とそびえ立っている.百万都市ナポリの街並みは,ヴェスヴィオ火山とカンピ・フレグレイ火山にはさまれたナポリ湾の北岸にひろがっている.天気さえ良ければ,ヴェスヴィオ火山の姿はナポリ湾岸のほとんどの場所から眺めることができる.ナポリの港(サンタ・ルチア港)やナポリ市街背後の丘からのヴェスヴィオ火山の眺めはとくに有名であり,古来多くの絵画に描かれてきたが,ソレント半島やカプリ島,イスキア島から見る姿もまた格別である.


 ヴェスヴィオ火山は,山麓の広大な平地から火山特有のゆるやかな裾を引いて立ち上がり,山頂に近くなるにつれてかなりの急斜面を見せる円錐形の火山である.一目してわかるように,山頂は2つの峰からなる.南西側の高いほうの峰が歴史上幾多の噴火を繰り返した火口をもつ峰(ヴェスヴィオ山,1277m)であり,北東側の低い峰(ソンマSomma山,1132m)は,ヴェスヴィオ山を円弧状にとりまく古い火山体の一部である.このような形態や活発な爆発的噴火の歴史は,日本の浅間火山をほうふつとさせる.現在はソンマ山よりヴェスヴィオ山の方が標高が高いが,17世紀なかばにはソンマ山の方が高かったことが当時の絵画からわかる.豊富な絵画を時代順に並べることにより,17世紀末からの何度かの噴火によってヴェスヴィオ山が成長し,18世紀なかばに至ってほぼ現在の形となったことがわかっている.
 ヴェスヴィオ火山がいつ頃誕生したのかはよくわかっていないが,79年噴火以前のおよそ2万3000年間にわたって,数千年おきに7回の大規模かつ爆発的な噴火を起こしたことが地質調査によって明らかになっている.79年噴火のひとつ前の大噴火は,3750年前に起きたアヴェッリーノAvellino噴火である.一方,79年以前の噴火記録にはっきりしたものはなく,わずかに紀元前217年ころに噴火が生じたことを疑わせるいくつかの天変地異記録が知られるのみである.

ローマ帝国を揺るがした紀元79年噴火
 ヴェスヴィオ火山の名がこれほどまでに世界に知れわたっているのは,ローマ帝国の2つの町ポンペイPompeiとヘルクラネウムHerculaneumを埋没させた紀元79年噴火の著名さのせいだろう.
 初代皇帝オクタヴィアヌスの即位によって紀元前27年に成立したローマ帝国は,その絶頂期への道を歩み続けた.しかし,その道は決して平穏無事なものではなかった.第4代皇帝クラウディウスが54年に没した後,その後を継いだのは暴君として後世に名高いネロであった.ネロの傍若無人さに合わせるかのように,不吉な事件がローマ帝国のあちこちで起きるようになった.
 ネロがみずからの母を謀殺した2年後の61年にはブリタニア(現在のイギリス)で原住民の反ローマ蜂起が起き,ロンディニウムの町(現在のロンドン)が略奪を受けた.64年には帝都ローマが大火に襲われた.ネロは大火の罪をキリスト教徒にかぶせ,組織的な迫害を始めた.ネロの師であったストア派の哲学者セネカは,火山の下にマグマだまりがあること,噴火の原因がマグマ中のガスであることを見抜いていたが,65年にネロによって自殺を余儀なくされた.その後,68年に起きた反乱を機にネロはついに自殺に追い込まれることになったが,ネロの死後も凶事はやまず,政変と短命政権が続いた.そして79年を迎えた.
 ポンペイ・ヘルクラネウムとその一帯は,肥沃な土壌と豊かな作物,火山麓独特の風光明媚さ,温暖な気候などがあいまって,ローマ帝国当時から一級の保養地・避寒地であった.ポンペイはヴェスヴィオ山の南東麓(火口から9km)のナポリ湾に面する町で当時の推定人口は2万人,ヘルクラネウムは西麓(火口から6.5km)にあってやはりナポリ湾に面し,人口は5000人であった.発掘された街並みや,建物の壁に描かれた壁画などから,噴火前の住民の平和な暮らしぶりがしのばれる.ポンペイの町から発見された壁画のひとつには,緑におおわれたヴェスヴィオ山を背景に酒神バッカスの姿が描かれており,当時の山麓が今と同じくぶどうの名産地であったこともわかる.

ポンペイ遺跡から見たヴェスヴィオ火山


 63年(あるいは62年)にヴェスヴィオ山周辺で起きた地震が,ポンペイとヘルクラネウムの悲劇の(物理的)前兆であったとする考えがある.この地震によって,2つの町は少なからぬ被害をこうむったらしい.この地震の体験とその後の復興が,かえって町の人々に自然災害に対するある種のたくましさと油断をあたえ,それが79年噴火時の避難の遅れの誘因となったのではないかと考える人もいる.
 79年噴火の推移は,山麓に分布する火山灰などの噴火堆積物の地質学的な研究と,噴火を記述した古記録の研究から,かなり明らかになっている.噴火の数日前から有感地震が何回か起きていたらしい.8月24日の昼ごろに最初の水蒸気マグマ噴火が生じた後,午後1時ころに火口から巨大な噴煙が立ちのぼり,高度30km付近の成層圏に達した.この噴煙は北西の風にのって南東方向に広がり,その方角にあったポンペイの町におびただしい白色の軽石を降らせ始めた.
 この日のうちにポンペイの人々が大がかりな避難行動に移っていれば犠牲者の数はもっと少なくて済んだかもしれないが,町の人々の多くはその場所にとどまったらしい.巨大な噴煙は絶えることなく続き,ヴェスヴィオ火山周辺は日没前から闇に包まれた.噴火にともなう地震が何度も起き,人々の不安をいっそう煽った.ポンペイの町に降りそそぐ軽石は衰えを見せず,徐々にその厚さを増していった.
 翌日8月25日未明,噴火活動に重大な変化が生じた.火口の大きさが拡大したことと,マグマ中のガス成分の減少によって,それまでの安定した噴煙の形が崩れて火砕流が発生し始めたのである.火砕流はおもにヴェスヴィオ火山の西斜面と南斜面を流れ下り,そのうちのひとつがヘルクラネウムの町を全滅させて海岸に達した.つづいて8月25日の朝,南斜面をやや規模の大きな火砕流が流れ下り,すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたポンペイの町を襲った.ポンペイの町に残っていた2000人はこの時に焼き殺された.死の町となったポンペイとヘルクラネウムの上を,さらに数度の火砕流が通りすぎた.8月25日の朝8時ころをクライマックスとして噴火は徐々に衰えをみせ,数日後にはおさまったらしい.79年噴火全体で噴出したマグマの量は,およそ4立方kmと推定されている.噴火による降灰はイタリア半島だけでなく,北アフリカから中東までの広い範囲におよんだ.

火砕流堆積物の下から発掘されたヘルクラネウムの街.背景の山がヴェスヴィオ火山.


 ヴェスヴィオ火山周辺は灰におおわれた死の世界となったが,全盛期のローマ帝国の力によって復興が迅速におこなわれたらしい.しかしながら,数mまたはそれ以上の火山灰や軽石の下に埋没したポンペイやヘルクラネウムをはじめとする山麓のいくつかの町や村の復興は断念され,そのまま放置された.埋没した都市の伝説は住民に長く語り伝えられ,また農夫はときおり自分の畑から古代都市の遺物を掘り出したから,それらの位置や物語が完全に忘れ去られることはなかった.
 18世紀になって,付近を当時支配していたスペイン王家出身のナポリ国王カルロス3世の命により,本格的な発掘が開始された.発掘によって明らかになった古代の生活様式や文化は当時のヨーロッパ社会に衝撃をあたえ,「ポンペイ様式」と呼ばれる建築・装飾やファッションまでが登場した.1834年にはリットンによって歴史小説「ポンペイ最後の日」が書かれ,後に映画化もされて,ポンペイの名は世界中の人々が知るところとなった.
 ポンペイやヘルクラネウムは20世紀末の今日においても発掘が完了していないが,発掘の終わった部分は一般に公開され,一大観光地となっている.ポンペイは城壁に囲まれた東西1.2km南北700mの大きな町であり,その7割ほどが掘り出されている.また,ヘルクラネウムは200×300mほどの区画が掘り出されているが,町をおおった厚い火山灰の上に現代の町エルコラーノErcolanoが作られてしまったから,今以上の発掘を進めることがもはや難しい.発掘された2つの町の建物ひとつひとつの機能や位置づけはよく調べられ,よく解説されているから,遺跡の中を歩くことによって当時の町の生活や雰囲気を容易に想像することができる.

プリニウスが見たヴェスヴィオ火山の紀元79年噴火
 紀元79年の大噴火については,それを間近で目撃したローマ帝国の小プリニウスが歴史家タキトゥスにあてた2通の書簡によって,その詳細を知ることができる.この書簡は噴火から25年後の104年になって書かれたものであるが,生々しい噴火の様相と推移がえがかれている.噴火当時,小プリニウスは18才頃の若者であり,ローマ帝国の軍港のあったミセヌムMisenum(現在のミセーノMiseno,ナポリの西16kmにあるナポリ湾口の町)に家族とともに住んでいた.
 79年8月24日午後1時ころ,小プリニウスはヴェスヴィオ山の方角にたちのぼる異常な形の雲を見た.ミセヌムからヴェスヴィオ山頂までは25kmほど離れており,間にはナポリ湾が横たわっている.彼の叔父(または伯父)の大プリニウスも,その時ミセヌムにいた.ローマ帝国海軍提督の任にあった大プリニウスは,「博物誌」の著者として知られる学者でもあった.「博物誌」には当時知られていた活動的火山のリストまでが載せられていたから,大プリニウスが異常な形の雲に興味を示したのは不思議ではなかった.ちょうどそこへ,ヴェスヴィオ山麓に住む友人から救助を求める手紙が届いた.大プリニウスは軍船を一隻用意させると,部下とともにみずからそれに乗り込んだ.
 北西の風にのってナポリ湾を横断した大プリニウスとその部下たちは,やがてヴェスヴィオ山麓に展開されるすさまじい噴火の地獄絵を船上から眺めることになる.彼らはポンペイ港への上陸を果たせず,ナポリ湾の南東最奥にあるスタビアエStabiaeの町(ヴェスヴィオ火口から14km)に上陸する.北西風は,噴煙を火口の南東に位置するポンペイとスタビアエの方向へなびかせたため,2つの町にはおびただしい量の軽石が降りそそいでいた.強い北西風のために船での脱出ができなくなった大プリニウスたちは,そのままスタビアエにとどまることを余儀なくされた.噴火にともなう地震と降り積もった軽石の重みによって,次々に家屋が倒壊した.火口や噴出物を起源とする有毒ガスも町に充満した.そして,ミセヌムを出航した2日後の夕方,疲れ果てた大プリニウスはついに息絶えることになった.死因は有毒ガスとも心臓マヒとも言われている.
 一方,地震と降灰はミセヌムにいた小プリニウスをも襲っていた.地震による建物の倒壊をおそれた小プリニウスは,8月25日の朝に彼の母とともに屋外へと避難し,降りそそぐ灰を振り払いつつ郊外の丘から噴火の一部始終を観察することになった.日はすでに昇っていたが,空をおおう巨大な噴煙のためにあたりは暗黒に閉ざされていた.彼の観察記録から,ヴェスヴィオ山体を駆け下って海上をつき進んだ火砕流や,ナポリ湾で生じた津波などの事件を読みとることができる.やがて噴火はピークを越え,ミセヌムに戻った小プリニウスは,生き残って帰還した大プリニウスの部下から叔父の死の知らせを聞いた.
 小プリニウスが書き残した79年噴火は,有史以来現在までの間にヴェスヴィオ火山で起きた最大かつもっとも激しい噴火であったことが地質学的調査によってわかっている.噴火から17年後の96年,ローマ帝国皇帝としてネルヴァが即位する.ローマ帝国の絶頂期である五賢帝時代のはじまりである.小プリニウスは,ネルヴァ帝の後を継いだトラヤヌス帝に法律家・政治家としてつかえ,その生涯を全うした.世界で初めてこのような破局的噴火の克明な様相を書き残した小プリニウスの名にちなんだプリニー式噴火(plinian eruption)の名前が,大規模な降下軽石をおこす噴火をあらわす火山学用語として使われている.

その後のヴェスヴィオ火山
 79年の噴火につぐ規模のヴェスヴィオ火山の爆発的噴火が,ゲルマン人によって西ローマ帝国が滅ぼされる直前の472年に起きた.西ローマ帝国の滅亡(476年)の後,19世紀後半にいたるまで,ナポリ付近およびイタリア南部の支配者はめまぐるしく交代した.このことはイタリア南部の社会や文化に複雑な影響をあたえ,これに起因する根深い「南北問題」は現在でも尾を引いている.
 5世紀末以降のナポリは,東ゴート族,ランゴバルド族,ビザンティン帝国などの支配を受けた後,11世紀に入ってノルマン人が王国を作った.その間もしばしば噴火したヴェスヴィオ火山は1139年の噴火を最後に長い眠りについたが,その代理をつとめるかのように1302年にイスキア火山,そして1538年にカンピ・フレグレイ火山で噴火が生じた.この両噴火の後,イスキアとカンピ・フレグレイでは今日に至るまで噴火が起きていない.1302年はフランス王族のアンジュー家を主としたナポリ王国が成立した年でもあった.しかし,15世紀になると,ナポリの支配者はスペイン人に交替した.
 1631年12月16日の早朝,ヴェスヴィオ火山は突然眠りから覚めて噴火を開始し,降灰・火砕流・泥流などによって広範囲に大きな被害を生じさせた.犠牲者の数3000〜6000人と推定される大変な災厄だった.この噴火の前数ヶ月間にわたり,群発地震・鳴動・噴気・火映・井戸水の異常などのさまざまな前兆があらわれたことが,多数の史料から知られている.噴火の24時間前から群発地震はいっそう激しさを増したらしい.噴火は,79年噴火とよく似た推移をたどった.初期に水蒸気マグマ噴火が起き,20時間ほどプリニー式噴火が続いた後,17日未明から火砕流を発生するようになった.火砕流は西および南斜面を流れ下り,一部は海に達した.ナポリ湾では津波も観測された.17日の夕方に噴火はピークを越え,数日かけて収束していった.噴出したマグマの総量は,79年噴火の8分の1にあたる0.5立方kmであった.噴火にともなう山体の崩落によってヴェスヴィオ山頂は標高が450mも低下し,ソンマ山より低くなってしまった.
 1631年の噴火以後も300年あまりにわたってヴェスヴィオ火山は頻繁に噴火を繰り返したが,79年噴火や1631年噴火のような大規模な軽石噴火は起こしていない.それらの噴火の多くは溶岩流出で始まり,やや爆発的な噴火をした後,数年休むということを繰り返した.この間,ナポリの支配者はスペインからオーストリアに一時移った後,ふたたびスペイン王家に戻り,さらにナポレオン帝国の支配を受けた後,1815年からふたたびオーストリアが覇権を握った.そして1860年,イタリアの統一をめざすガリバルディの千人旅団によってナポリはイタリア領となり,今日に至っている.
 そして,ムッソリーニ体制下の1944年の噴火を最後に,ヴェスヴィオ火山はふたたび眠りについてしまった.この休止期がいつまで続くのか,そして眠りの後には79年や1631年噴火のような破局的な噴火を起こすのかという疑問に,火山学者はまだ明確な回答を用意できないでいる.かりに今1631年と似た噴火が起きるとした場合,ヴェスヴィオ火山周辺から60万人もの住民を避難させねばならないという.



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